May 31, 2014

美知子さんに学んだこと

さて、美知子さんに学んだことである。

 召天式(お葬式)の中で、美知子さんが「人は役に立つから価値があるのではなく、生きているから価値があるのよ。」と言っていた、という思い出が語られていた。

 じつは、nikkouは、昨年夏に出産した赤ん坊の世話をしながら、折々美知子さんのことを思い出していた。

語弊があるかもしれないけれど、美知子さんと赤ちゃんは、少し、似ている。食事にも排泄にも移動にも、人の手を借りなければならない。車いすで移動するときは、ベビーカーで移動するのと同じようにバリアフリーの設備が欠かせない。

  ただ美知子さんは大人なので、こうした状況に切ない葛藤を乗りこえなければならなかった。とくに若い頃、膀胱炎を煩った時のつらさについて、美知子さんはこう記している。

介助者へ……

ここ一ヶ月、神は、いや、神とよばれるものがあるとしたら……
これでもか、これでもかと、私をはだかにしていった。
私のいちばん隠したかった部分を、よりによってはがしていく。
(中略)
管の導入……局部のただれ……生理……と
次々と私の衣をはがし
命そのものへと近づけた。
もうこれ以上、私の衣はない。
もうこれ以上、私に隠されたものはない。
私は命そのものを、あなたがたに託そう。
あるがままの姿で、あなたがたのまえに
在ることの意味を問い続ける者となろう。
(以下略)

「私の自立生活」より

  そして、物理的に赤ちゃんのような不自由さがあるために、精神的にも赤ちゃんのように扱われる屈辱も経験していた。一度、入院のつきそいをしたことがあるのだけれど、看護師さんの話し方に気の利かないnikkouですらカチンときて思わず注意したことがあるほどだ。

  おいしいカレー屋さんやおしゃれな雑貨屋さんの店内が狭くて車いすが入れなかったときもある。でも、美知子さんや、美知子さんと同じ障害を持つ夫君は負けなかった。カレー屋さんの店の前にテーブルを出してもらって食べたり、雑貨屋さんの店先にnikkouが商品を持ち出して広げて、買い物を楽しんだりした。

 介助の帰り、いつもnikkouは深い疲れを覚えた。車いすを押す体力的な疲労感もあったけれど、なにより、この「不便さ」にぐったりする感じだった。

  こんなに動きがままならないのに、どうして美知子さんはこんなに堂々といられるのだろう、と若いnikkouには分からなかった。まあ、そうしたいんだからそうすれば、とあまり考えないようにしていた、というところもある。

  あれから7〜8年たち、召天式で美知子さんの言葉、「人は役に立つから価値があるのではなく、生きているから価値があるのよ。」を聞いて、nikkouは、ああ、そうか、といまさらながら、心の奥底からため息が出る思いだった。

nikkouの赤ちゃんは、今まさに「役に立たない」日々だ。
 おっぱい飲んでねんねしてだっこしておんぶしてまた明日、な毎日である。
 なのに、ものすごく、ものすごく、大事だ。
 自分の命より、大事だ。
 役に立たないのに、価値が、それも、絶大なる、かけがえのない、価値がある。
 それが、人間の命なんだ、ということを、あまりの大事さに息が詰まりそうになりながら、nikkouは、今、毎日、ひしひしと感じている。

  美知子さんは、ご両親や夫君から、「あなたは、大事だ」という思いを、愛を、たくさん受け取っていた人なのだろう。なにより、神様からそのまなざしを感じていたのだろう。だから、自分だけじゃなく自分の周りの人も「大事だ」と心から感じていたのだろう。それゆえnikkouのような気の利かない介助者のことも、とても愛してくれていたのだろう。

  聖書の中に、「わたし(神様)の目に、あなたは高価で貴い」という言葉がある。聞き慣れすぎちゃってなんの感動も覚えなくなっていた言葉だけれど、nikkouは、美知子さんの召天式のときにふと思い出して、まるで初めてその言葉を聞いたような、すごく新鮮な思いがした。

  nikkouは、なにも分かってなかったよ。
 自分自身のことも、役に立っているから偉い、とか、役に立たないからだめだとか、驕ったり卑屈になったりしていた。
 役に立ちたいという思いは大事だけれど、それは人間の価値とは全然関係ない。

  そんな、人生の真理をでも呼べるものを、美知子さんは、日々の生活をnikkouたちと共にする中で、証ししていた。

  美知子さん、今頃わかったよ。
 本当に、nikkouは気の利かない介助者だったね。ごめんね。
そして、ありがとう。

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February 09, 2009

「アガペー」はさびしい

41afz9wtvel__bo2204203200_pisitbsti 『サーバント・リーダーシップ』(ジェームス・ハンター著)を読む。

「神の愛=アガペー」とは、「敵をも愛する愛」である、
とは、礼拝やクワイアーで、さんざん聞かされる言葉ではある。

たいがいどこでも、そんな話のあとは、
「主よ、しかし、わたしは、敵を愛する心をもちえません。この罪深きわたしをお赦しください。」と祈って、おしまいになる。

だがしかし。
本書では、「敵を愛する」とは、けっして「敵に好意を持て」という意味ではない、という。

じつはこれも、礼拝やクワイアーで、さんざん聞かされる話である。たいがい、キング牧師の
「われわれは、別に『敵に好意を持て、仲間が殺されようが、石を投げられようが、敵に好意を持て』と神に命じられているのではない、『敵を愛せ』とは、どんなに好意が持てなくても、敵に、礼儀正しく、忍耐をもち、フェアな態度で接しなさい、という意味である。」
という意味の言葉を引用しつつ、
それが、主イエスの、生涯を通じて示した、愛の形である、と説かれる。

本書では、それをビジネスにおけるリーダーのふるまいに適用せよ、と勧める。
まあ、たしかに、いけすかないからといって部下や同僚を、いじめたり、窓際に追いやったりする上司は持ちたくない。

さらに、本書で、「アガペーは、やろうと努力すれば、できるはずだ」という。
これは、ちょっと、面白いと思った。
たしかに、「アガペーは、神しかできないので、私はしません、すみません」ですまないのが、人間社会のつらさであり、面白さでもある。

なるほど、神の愛とは、エロースや、フィレオーとは違う、公平な行為であるわけか、と
わが職場と、わが上司や同僚を思い浮かべつつ、理解した、と思ったところで、
一晩おいて、
今朝のことである。

「ああ、神様、今日も一日、わたしを愛してください」
といつものように、祈って、
はた、と思った。

神様は、わたしを、アガペーで愛しているんだなあ、と。

そして、
正直、思いました。

…さびしいなあ。

いや、頭ではよくわかるんです。
神は、悪人にも善人にも、公平である、と。
どんなに神の思いに反する者であろうと、神は、その人に、礼儀正しく、フェアで情け深く、忍耐深く、接するのだ、と。
だから、わたしがいかなる罪を犯そうが、神はわたしを見捨てない、と。

でもさ、
やはり、ひとは、誰かに可愛がられたい、といいますか、
誰かの秘蔵っ子、誰かのいい子、誰かのごひいきさんでいたいものではないか、と。
つまり、わたしは、神様に気に入られたい、と思っていたわけですよ。

でも、神様は、私に対して、そういう「愛」を持っているわけではないんですね。

これは、クリスチャン6年目にして、
はじめて抱いた思いであり、
はじめて気付いた悟りでありました。
わたしは、神の愛を、エロースとごっちゃにしていたんでしょう。

なんだか、「神はこの世をひとしく愛する」という意味が、
いままでとまったく違って感じられて、
朝の通勤風景が、厳粛に見えました。

そう、厳粛。
冬の空気に似て、とても透明で、締まっていて、
「神の愛」という言葉に、まったくの甘さがないまま、静かに心に満ちた。

今日も、世界は、神の愛に、満ちておりました。

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October 07, 2008

神様は何語でおしゃべりするのか

はじめに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。(ヨハネによる福音書第一章第1節~2節)

Music & Arts Japan 2008のあとすぐ、久遠教会での韓国語讃美礼拝があったので、ここんところ、短期集中戦で英語とハングルの歌詞を覚えなければならなかった。

韓国語礼拝では、「Make us one」(わたしたちをひとつにしてください)という讃美を歌ったのだけれど、韓国語だけでなく、日本語でも歌い、さらにnikkouが手話をつけることになった。しかも原曲は英語である。ちなみにこの歌は、フィリピンのタガログ語とスペイン語で歌ったことがある。

さまざまな言葉で「Make us one」を歌うとき、nikkouは、すごく不思議な感じがする。
神は、地上にあるすべての言語を理解するんだ。
それは、単に、「神様は語学力がずばぬけている方だ」というにとどまらない。
この一年間、ハングルを学び、
この五年ばかり、ゴスペルを歌いながら、白人英語にはない黒人英語のニュアンスというものを学んできたのだけれど、
学ぶなかで、言語の背景には、その言葉を使っている人間が属しているグループの歴史や文化や価値観が厚く積もっている、
ということをいやがおうでも感じさせられてきた。
日本語に単純に翻訳できない言葉、というものが、どの言語にもある。
逆もまたしかり。
日本語の「おつかれさまでした~」と「それじゃ、よろしく」は英語にできない、なんてのは典型例だ。

『幸福な王子』『ドリアングレイの肖像』『サロメ』などの寓話を書いた19世紀末のイギリスの小説家、オスカー・ワイルドは語学力に長け、2年ごとに新しい言語を習得、
ヘブライ語をマスターしたとき、
「これで、天国に行ったとき、神様と、神様の言葉でおしゃべりができる」といったそうであります。

でも、nikkou、「Make us one」を歌うたびに、思うんだな。
神様とのおしゃべりは、ヘブライ語じゃないよ、きっと。
ヨハネ福音書冒頭の「言(ことば)」というのは、
ヘブライ語とか、ギリシャ語とか、日本語とか、英語とか、韓国語とか、手話とか、そういう、具体的な「言語」ではないんじゃないか。
もっと、根本的というか、根源的な「言(ことば)」、概念としての「言(ことば)」のことだと思うのね。

人間の「この人に、伝えたい」「この人と、つながりたい」という思い、「神様に、訴えたい、伝えたい」という思い、
いや、そもそも神様のほうから「この人に、伝えたい」という思いがあって、
音や、イメージや、(手話の場合、体の動きになって)、漏れ出た「その音」「そのイメージ」「その動き」そのもの。
それが、「はじめに」あった「言(ことば)」なんじゃないかと。

そう思うと、
ヨハネ福音書の第一章は、「言(ことば)」の持つ「人恋しさ」を伝えているようで、なんだかちょっと切なく、そして、とても美しく感じる。

「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」(ヨハネによる福音書第一章第四節~第五節)

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September 02, 2008

「愛」という言葉について

ゴスペルのリハーサル(練習)やコンサートでは、よく、
リーダーから、
「あなたを愛しています」とか「あなたは(神に)愛されています」という歌詞を、“隣の人に言いましょう”
といわれたりする。

ぶっちゃけ、nikkou、あれが、すっごく苦手です。
「あなたをあ」まで、隣の人の顔を見ながら言い、「いしています」で、ずるずる~っとあらぬ方向へ視線をそらす。
ときどき、まったくすっとぼけて、空を見ながら、「あなたは愛されています」と言い放っていたりする。
言い訳するわけじゃないが、これは、nikkouだけじゃない気がする。
「あなたを愛しています」と最後まで、隣の人をじいっと凝視しながら言っている人は、あまりいない。がんばって、「あなたを愛していま」までで、「す」で目をそらしてたりする。

アメリカの黒人教会で、「I pray for you, You pray for me, Ilove you, I need you to survive」(あなたのために祈ります、あなたは私のために祈ってください。あなたを愛しています。あなたがこの世界をなんとか生き延びてほしいと願っています)
という歌を歌ったことがある。
やはり、「隣の人に向って歌ってください」というリードがされた。
で、nikkou、隣にいた黒人のお姉さんに向って歌ってみた。
「I love you」あたりで恥ずかしくなって、目をそらし、
もう一度目をやると、
お姉さんは、もう、ずーっとnikkouを凝視、両手をnikkouにまっすぐ伸ばし、なんの照れもなく、はっきりnikkouに向って歌っていた。
しかも、繰り返し、繰り返し。
かなわねー、と思った。照れてる方が、恥ずかしいくらいだ。
文化ですかね。

クリスチャンになって7年になる。
クリスチャンになった当初から、どうも、「愛」という言葉に違和感を感じていて、
このブログでも、時々、ちょっと使ったりするが、まあ、それでもめったに使わない。

明治時代、女性の伝道者が田舎で説教をしていて、「神はわたしたちを愛されました。わたしたちも互いに愛し合いましょう。」と言ったとたん、
「じゃあ、一発ヤラせろや」とちゃかしたおじさんがいた、という笑い話があるが、
たぶん、nikkouの「愛」という言葉に感じているニュアンスというか、雰囲気は、そっちの感覚に近いんだろう。
「神の愛」という言葉が言い表しているものは、これまでのnikkouの人生には、まったく無かった概念なのかもしれない。
そして、nikkouの個人的な想像なんだけれど、
イエスの時代にも、この概念は無かったんじゃないだろうか。
だから、彼は、次々とたとえ話をした。
その概念をずばり、言い表す言葉がなかったから。

Htbookcoverimage 夏休みに、『イエスはなぜわがままなのか』(アスキー新書・岡野昌雄)という本を読んだ。
この著者、岡野氏のイエス観というか、聖書観は、nikkouとすごく近くって、強い共感を抱いた。

岡野氏いわく、
イエスは道徳的に正しい人ではないし、聖書は道徳的の本じゃない。
nikkouも、そう思う。
道徳的に見えることはあっても、それは、結果的なものだ。
むしろイエスは、世間の道徳観、良識や常識みたいなものを、がばっとくつがえすようなことをやったり言ったりする。
女の人が男の人たちの集会に参加するのは「不道徳」だ、という当時の強固な「良識」を蹴散らし、
「貧しい人にお金を恵んでやれ」と実に「道徳的」なことを言った弟子たちを「余計なことを言うな」とばかりに叱りつけたり、
「ランプの油が足りなくなった」と言っている同僚を家の外におっぽりだすような意地悪な女の子たちをたとえ話にしたりする。

なんで? どうして? そんなん理不尽じゃない?
と、聖書やイエスに出会った私たちは、
時に不満やらいらだちやら怒りやらを胸に、問い続けなければならない。

たぶん、それが、イエスのねらいだったんだろう。
キーワードは、「神の愛」なんだろうが、
日本語の「愛」という言葉は、イエスが伝えようとした「ナニか」の一部をかすって、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。

イエスがわたしたちに伝えようとした「ナニか」を体と心でがっつり受け取って生きる人には、
妙な迫力がある。
日本語の「愛している」「愛されている」という言葉が持つ甘い空気はみじんもない。
どちらかというと「凛としている」という感じ。
キング牧師とかマザー・テレサを上げるまでもない。
大村はまさんとか、ペシャワール会の中村哲医師とか、nikkouの身近にいる2,3人のクリスチャンの友とか。

主なる神は、名づけようのないその「ナニか」を完全に把握しているんだろう。
わたしは、把握していない。
ただ、せめて、毎日の生活のなかで、
“主よ、わたしのこの思い、この行いは、あなたがわたしに伝えようとした「ナニか」に近いでしょうか? ”
と問い続けるしかない。
でも、そんな「対話」ができるってことは、
幸いなんじゃないか、とは思う。

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February 05, 2008

聖書の読み方

31994204_2 タイトルに惹かれて『地頭力を鍛える』(細谷功)を読む。

読みつつなんとなく、マックスウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』が脳裏にちらついてやまない。

働くことでこの世に生まれた目的を果たせ、他者の利益に尽くすことがめぐりめぐってわがためとなる…っていうね。

この本も、アメリカのものの考え方の輸入だったりするんだろうなあ。

中に、「抽象化して考えよ」という項目があった。

自分の状況は特殊だ、と思うな、

問題を抽象化し、一般化し、普遍化せよ、

そうすれば、たいがい、先人の来た道に解決策がある、と。

この「先人の来た道」が、アメリカだと「聖書」だったりするんだろう。

9784480863812_2 それこそアメリカからの直輸入ビジネス書、ロバート・キヨサキ最新刊『あなたにお金持ちになってほしい』と、タイトルも表紙もなんだかギラギラした感じのこの本のなかに、

その名もずばり「宗教、信仰、お金についてどう考えるか」という項目があって、

ひらくと、なんだかデボーション誌みたいです。書き込み式になっているの。キリスト教は言うにおよばず、仏教であれイスラム教であれインディアンの宗教であれ、人間なにかしら信じていて当然、というアメリカ人の宗教観が端的に分かる項目でありました。

「デボーション」というのは、クリスチャンが個人的に捧げる礼拝のことで、

まず祈って、それから聖書をよんで、気になるところを書き留めて、

自分の生活を振り返ってあてはめ(ここが、上のビジネス書にも取り入れられている)、

最後に祈る、というのでワン・セット。

アメリカ人式にギラギラしてなくても、毎朝早起きして、そんなデボーションをやったら、禅宗の朝のお勤めみたいで、さぞや清清しかろうと思うのだけど、

どうも続かず、続かないことが逆にストレスになってますます遠ざかり、という悪循環でした。せっかく、スタディバイブル買ったのにさ。

ところが、こないだの日曜、無教会の浦和聖書集会の礼拝に行ったら、

あるおばちゃんが、

「10月から聖書を毎日、

読めるときは10章、

読めないときは5節でも、

必ず読むようにしていたら、

最近ようやく、習慣になりました。

まず、聖書を読んで、祈って、なにかを始める、ということができるようになって、

だいぶ生活が落ち着いてきたように思います。」

とお話されて、

ほほ~と、思いました。

nikkouがここのところ聖書を読むのを負担に感じていたのは、

一昨年の聖書通読の仕方のせいだ。

毎日4章読めば一年で読めると謳われた通読表をせっせと塗りつぶす読み方。

ということは、1日さぼると翌日8章、3日で16章読まなきゃいけない。

1日16章読むのは、けっこうしんどい。

おかげで、1日さぼると、翌日はもう読みたくない、という心境になってしまってたのでした。

1年で読みきることじゃなくて、

毎日読むことを目的にするべきであった。

というわけで、昨夜は寝る前に1章分だけ読んだ。

創世記で、ヤコブのふたりの奥さん(なんと姉妹!)が子ども産み合戦するところ。お姉さんのほうが、命名のセンスがいいなあ、なんてことを思った。

ノルマにしなきゃ、ふつうに面白いんだよね、聖書って。

(2008.2.5)

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January 23, 2008

働きマン!

モーセは神に言った。「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか。」神はモーセに言われた、「私は有って有る者(エゴ・エイミー・エゴ)」。(出エジプト記3章13~14節)

昨年末テレビドラマ化された漫画「働きマン!」を読む。

舞台になっているのは某大手出版社の週刊誌編集部で、nikkouが働く文芸・人文系出版社とはまったく空気は違うのだけれど、でも、とても勉強になりました。

518dc679zbl_aa240_なかでも、新人編集者まゆちゃんの

「心に決めた目標があります。大好きな作家さんと読者に一生大切にされるような本をつくりたいんです。胸にぎゅっと抱きしめられるような本を・・・。」

というせりふには、…泣かされましたなあ。

(でも書き写すとこっぱずかしいぜ。)

うう、いつのまにか、月給もらって日々の雑務をつつがなくこなすのに必死になっていたけれど、nikkouだって、最初はそう思ってたんでありますよほんと。

読者として好きだった出版社の入社試験が、思いがけなく最終面接まで残ったその前の晩、nikkou懸命に祈ったのでありました。

「もし、この出版社の編集者にしてくれるのなら、もう、一生懸命働きます、世に出ることを待っている原稿を見つけ出して、だれかの励みになるような、だれかの慰めになるような、そういう本を、もう、一生分の命を懸けて作ります。

約束します。

だから、どうかどうか最終面接を合格させてください、お願いします。」

51gjbgivqsl_aa240_ 当時、nikkouはクリスチャンじゃなかったから、主イエスに祈ったわけではなかった。

それでも確かに、なにかに守られるように、

いや、何者かによって、すでに定められていたかのように、

最終面接を通った(あとで、300人応募のなかから、30人が最終に残り、3人が内定した、と聞いた)。

出版社の門口に、初めて社員として立ったとき、

「よい、仕事をしなきゃ!約束を果たさなきゃ!」

とそれこそ、働きマン!な思いに胸たぎらせつつ、

ふと、思ったのであります。

でも、誰に約束したんだろう。

― あなたは、一体、だれなんだ。

エゴ エイミー エゴ。

社会人になって、はや10年弱となり、振り返ると、「あなた」との約束はいまだ果たせていないなあと忸怩たる思い。

先日、仕事帰りに上司と飲んでたとき

nikkou30代かあ、いいなあ。これから10年間が編集者として一番いい時だなあ」と言われる(なんとなく根強い、編集者寿命40歳説)。

The best is yet to come(最善の時はいまだ訪れず)。

教科書関係にしても、それ以外にしても、今年はいい本を作りたいです。

(2008/1/23)

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January 05, 2008

あばら骨でつくる

創世記3章21節
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」

1月1日は、相方が昼に帰宅。
なので、そのままばたばたと支度をして、新幹線に飛び乗って、相方の実家に行きました。
何度行っても、美しい街。
東京のごみごみしたところに押し込めているのが申し訳ないような気がしてくる。
双方のおばあちゃんのごあいさつにいくと、いとこやらおじおばやらがたくさんいて、にぎやかで、核家族で育ったnikkouにはうらやましいようなHotな雰囲気でした。

相方の実家には2日までいて、3日は、nikkouの実家へ。
母から「あんた、ほんとに、“のだめ”に似てるわね~」と言われる。
正月の「のだめ・カンタービレ」再放送を観たらしい。
「そういうお母さんだって、ヨーコ(“のだめ”の母)にそっくりじゃん」というと、「まあね」とあっさり肯定。
nikkouから見ると、母のほうがのだめに似ている気がします。nikkouがのだめに似ているとしたら、絶対に、母DNAです。

4日は、相方は仕事へ。
nikkouは、7日から仕事はじめなので、大掃除の続きを(相変わらず)する。

捨てる雑誌をぱらぱらめくっていると、読者の投稿の中に、
「おばあちゃんから

『孫がかわいいんじゃない、かわいい娘の子供だからかわいい』

と言われる。人間ってそうやってつながっていくのかなあと思った。」
という言葉を見つけて、ここ三日ほどの、双方の家族との交流を思い出した。

創世記第2章では、「女」が造られる過程が描かれる。、
スタディ・バイブルには註がついていて

「女は男のあばら骨から造られ、土では造られなかった。」

とある。それがどういう意味なのか、よくわからないのだけれど、なんとなく気になって、メモする。

お正月にきた年賀状やメールを見ると、
独身時代には気付かなかったのだけれど、nikkouの身近には、けっこう素敵な独身男子がたくさんいるのね。
(別に、不倫願望勃発、という意味じゃありません。ごく客観的に。)
そろいもそろって、独身主義ではなく、いい人と巡り合えたら自然に結婚したい、と言うのだ。
そんな男子がごろごろしてるなんて、もったいね~な~。
思わず、
「彼らのあばら骨でこさえた女性を、主よ、彼らのもとへ連れて行ってください。それは、もう、製造者責任であります。」と祈ったのでした

追記:nifty、いつの間にか、フォントをいろいろいじれるようになっていた。

今年は、目に優しい大きめフォントを使うことにします。

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